资料映像上映会+トークイベント『女性法曹界の道を拓いた人々ー明治大学専门部女子部の足跡』开催报告
2024年08月07日
明治大学 情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター
2024年5月30日(木)开催
情报コミュニケーション学部 創設20周年記念
资料映像上映会+トークイベント『女性法曹界の道を拓いた人々—明治大学専门部女子部の足跡』
【登壇者】吉田恵子氏(元情报コミュニケーション学部教授?元ジェンダーセンター長)
【企画?司会?登壇者】細野はるみ(明治大学名誉教授?元情报コミュニケーション学部教授?元ジェンダーセンター長)
【主催】明治大学情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【后援】大学史资料センター、明治大学校友会
【日时】5月30日(木)17:00~19:40(16:30开场)
【会场】明治大学骏河台キャンパス グローバルフロント グローバルホール
【来场者数】65名
【报告】细野はるみ
女性の社会参加が非常に制限されていた昭和初期の1929(昭和4)年、明治大学は将来の女性の活跃を见すえて法科と商科からなる「専门部女子部」(以下、「女子部」と略称)を开设し、そこからは法曹界をはじめ専门职に就く优れた女性たちを辈出した。このことは本学部ジェンダーセンター発足に至る経纬を説明する时に必ず触れる明治大学の女子教育の歴史だが、それを过去の话として埋もれさせずに今后の学生にもわかりやすく伝えていくことを积年の课题とし、そのための资料を収集して来られた初代ジェンダーセンター长の吉田恵子先生が资料映像としてまとめられ、2014年3月のご退职から一月ほど后の本年5月に完成した。资料映像作成に当たっては、ジェンダー関连の研究?教育を支援する明治大学シモーヌ?ヴェイユ基金の援助も受けることができた。(以上、2014年度报告书より)
奇しくもちょうど10年前の同日、映像資料の完成を機に学部創設10周年記念行事として同様のタイトルで上映会を催した。今回は学部創設20周年記念行事でもある。それ以上に今回はNHK で放送中の連続テレビ小説「虎に翼」で主人公の出身校のモデルとして明治大学専門部女子部が脚光を浴びている時でもあり、女子部について広く知ってもらう機会であると捉えて上映会を再び実施した。
映像ではまず専门部女子部诞生前夜の大正末期の社会情势として、第一次世界大戦后の大戦景気に伴い工场やデパートの佣员、バスガール、タイピスト等の様々な职种の职业妇人が増加していくさま、大正デモクラシーと普通选挙法の成立、それが男子のみであったために女性にも政治参加の机会を开こうとする「新妇人协会」「妇人参政同盟」などの妇人运动の兴隆といった时代背景を描く。そして女性にも弁护士への门戸を开こうという弁护士法の改正运动を背景に、昭和4年に明治大学に法科?商科からなる専门部女子部が开校するに至る。女性が政治や社会に参加するには、まず当时の主流であった良妻贤母教育ではない、职业に必要な法律や政治?経済などの基础知识を学ぶことのできる高等教育がなされなければならないという趣旨で、弁护士法の改正にも関係の深かった明治大学の3人の教授たち、横田秀雄?穂积重远?松本重敏らの尽力で女子部は开校にこぎつけた。当时の日本に他にそうした教育机関は稀で、その设立趣意书を见ると、このことがいかに时代を先取りした取り组みであったかということが十分にうかがわれる。その后入学生は女子部を経て明治大学の法学部に进学することができるようになり、高等文官试験司法科(现在の司法试験)の受験が可能となった。
女子部开校当初は広い年代层の入学者を集めたが、その后次第に志愿者は减少を続け、存続も危ぶまれる状况を迎えた。その危机を救ったともいえるのが1938(昭和13)年の高等文官试験司法科に久米爱?叁渊嘉子?中田正子の3名の卒业生が合格したことで、これが日本で女性の初の弁护士の诞生につながった。これに刺激を受けて、戦前?戦中の困难な时代にもかかわらずその后も法曹界を目指す女子学生が入学し、当时の司法科试験や行政科试験の合格者のほとんどを女子部から出し続けた。映像には开校当初以降の入学者の颜写真台帐と、その后の活跃に伴っての写真映像をもとに、各期の卒业生の各分野での活跃の群像が示され、后に明治大学短期大学の教员になった高洼静江、明治大学初の女性学部教员(法学部)であり女性初の法学博士の立石芳枝、以下、女性代议士、女性税理士、等々、各分野で「女性初の」と冠される人材が続く。
戦后は大々的な教育システムの改変があり、女子部もいくつかのプロセスを経て明治大学短期大学と改められた。4年制の大学に女性が受け入れられるようになった后にも女子の进学先として2年制の短期大学への入学希望は多く、法律科?経済科ともに社会科学の専门教育を受けられるユニークな短期大学としての需要は大きかった。短期大学修了后も関连の4年制学部に进学し、更に职业人として活跃する女性を多く生み出していった。
上映后にはまず吉田恵子元本学部教授が、女子部开设に関わった、当时の明大総长横田秀雄?女子部部长松本重敏?东京帝大教授の穂积重远といった3人の男性が女子教育の扉を开いたことについての意义、それを受け止めた女子部志愿者の女性たちとその出身家庭の実相、すなわち出身家庭は比较的恵まれた新中间层の比率が高かった(约3分の2)こと、最初の司法科试験合格者をはじめ代表的な卒业生について绍介し、さらにそうした人々を生み出す背景として、第2次世界大戦前夜の当时の时代の趋势が稀有な状况を开いたことなどについて述べた。
次に细野はその后の女子部について述べた。すなわち、戦争直后の日本全体の民主化への流れの中で、骋贬蚕の提示した女性の开放や学校教育の民主化等の方针に则り短期大学制度が暂定的に発足するが、明治大学でも女子部の法科と商科は短期大学部となり、他に新闻科?社会科?工学科も设けたりした后、女子のみの法律科と経済科からなる「明治大学短期大学」という形に落ち着き、これが専门部女子部を戦后に引き継いだものとなること、そして1979年、女子部创设50周年记念の机会に设けた「総合讲座妇人问题研究(后に女性问题研究)」でジェンダー问题を包括的に扱い、短期大学は长らく明治大学内でのジェンダー教育を牵引してきたことを説明した。
その後、女子の高等教育の機会が増えるにつれ短期大学の需要は減り続け、2003年度をもって入学試験を停止、2004年には新しく男女共学の情报コミュニケーション学部が誕生した。短期大学と情报コミュニケーション学部は組織として直結しているわけではないが、新学部は時代のキーワードを負ってまた別の意味で時代を先取りする教育?研究を展開する学部と目されている。併せて女子だけの教育機関が明治大学から姿を消すことになり、女子部の歴史的意義が次第に忘れられていってしまうことを危惧して、ジェンダーを核とし、多様性への洞察と理解を深めるよう、さらに次の時代を見越した研究?教育?社会连携を目指す「情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター」が開設された。
なお、こうした先駆的な取り組みであったにもかかわらず、女子部については外部のみならず明治大学内でも周知?理解されていたとは言い難く、長らく女子部?短大は「知る人ぞ知る」といった特異な存在として扱われていたことは否めない。特に社会的に女性にも高学歴志向?キャリア志向が高まるにつれ、短期大学は中途半端な教育課程として見られがちになり斜陽化してしまった。さらに本学の女子部?短期大学は情报コミュニケーション学部へと組織が切り替わったためにその継続性を強調することは難しく、NHKのドラマで脚光を浴びなかったら今回のような注目は望めず、埋もれてしまったかもしれない。
今回の企画については、担当したのがともに退职教员であったための事前準备の困难さもあり、実施にあたり準备不足や不手际があったことを自认している。アンケートにも好意的な评価の半面、その旨の批判が复数あり、その责めは重々受け止めたい。企画者として特に残念だったのは、映像にも登场した卒业生の横沟正子弁护士を登坛者として招かなかったことである。横沟弁护士には会场からの补足発言をしていただけたが、それを企画内に取り入れておくべきだった。また、映像は全体で约65分间だが、そのダイジェスト版(16分弱)を、ジェンダーセンターの贬笔からのリンクで见ることができる。そのことを周知する予定であったのを、进行の不手际でせずじまいになってしまった。
アンケートの中には、学生に向けて大学内の女子教育の歴史について知らせる机会が、特に骏河台キャンパスではあまりないのでやってほしいという要望もあった。女子部について语る时、その草创期の华々しさのみではなく、その后どうなったのか、それは日本全体の女子教育の歴史の中でいかなる意味があったのか、そして今后どのような方向が望まれるのかをしっかりと捉えていくことはとても重要であり、そしてジェンダーセンターにはそれを担っていく责务があると笔者は考えている。后の世代にもそのことは託していきたい。
情报コミュニケーション学部 創設20周年記念
资料映像上映会+トークイベント『女性法曹界の道を拓いた人々—明治大学専门部女子部の足跡』
【登壇者】吉田恵子氏(元情报コミュニケーション学部教授?元ジェンダーセンター長)
【企画?司会?登壇者】細野はるみ(明治大学名誉教授?元情报コミュニケーション学部教授?元ジェンダーセンター長)
【主催】明治大学情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【后援】大学史资料センター、明治大学校友会
【日时】5月30日(木)17:00~19:40(16:30开场)
【会场】明治大学骏河台キャンパス グローバルフロント グローバルホール
【来场者数】65名
【报告】细野はるみ
女性の社会参加が非常に制限されていた昭和初期の1929(昭和4)年、明治大学は将来の女性の活跃を见すえて法科と商科からなる「専门部女子部」(以下、「女子部」と略称)を开设し、そこからは法曹界をはじめ専门职に就く优れた女性たちを辈出した。このことは本学部ジェンダーセンター発足に至る経纬を説明する时に必ず触れる明治大学の女子教育の歴史だが、それを过去の话として埋もれさせずに今后の学生にもわかりやすく伝えていくことを积年の课题とし、そのための资料を収集して来られた初代ジェンダーセンター长の吉田恵子先生が资料映像としてまとめられ、2014年3月のご退职から一月ほど后の本年5月に完成した。资料映像作成に当たっては、ジェンダー関连の研究?教育を支援する明治大学シモーヌ?ヴェイユ基金の援助も受けることができた。(以上、2014年度报告书より)
奇しくもちょうど10年前の同日、映像資料の完成を機に学部創設10周年記念行事として同様のタイトルで上映会を催した。今回は学部創設20周年記念行事でもある。それ以上に今回はNHK で放送中の連続テレビ小説「虎に翼」で主人公の出身校のモデルとして明治大学専門部女子部が脚光を浴びている時でもあり、女子部について広く知ってもらう機会であると捉えて上映会を再び実施した。
映像ではまず専门部女子部诞生前夜の大正末期の社会情势として、第一次世界大戦后の大戦景気に伴い工场やデパートの佣员、バスガール、タイピスト等の様々な职种の职业妇人が増加していくさま、大正デモクラシーと普通选挙法の成立、それが男子のみであったために女性にも政治参加の机会を开こうとする「新妇人协会」「妇人参政同盟」などの妇人运动の兴隆といった时代背景を描く。そして女性にも弁护士への门戸を开こうという弁护士法の改正运动を背景に、昭和4年に明治大学に法科?商科からなる専门部女子部が开校するに至る。女性が政治や社会に参加するには、まず当时の主流であった良妻贤母教育ではない、职业に必要な法律や政治?経済などの基础知识を学ぶことのできる高等教育がなされなければならないという趣旨で、弁护士法の改正にも関係の深かった明治大学の3人の教授たち、横田秀雄?穂积重远?松本重敏らの尽力で女子部は开校にこぎつけた。当时の日本に他にそうした教育机関は稀で、その设立趣意书を见ると、このことがいかに时代を先取りした取り组みであったかということが十分にうかがわれる。その后入学生は女子部を経て明治大学の法学部に进学することができるようになり、高等文官试験司法科(现在の司法试験)の受験が可能となった。
女子部开校当初は広い年代层の入学者を集めたが、その后次第に志愿者は减少を続け、存続も危ぶまれる状况を迎えた。その危机を救ったともいえるのが1938(昭和13)年の高等文官试験司法科に久米爱?叁渊嘉子?中田正子の3名の卒业生が合格したことで、これが日本で女性の初の弁护士の诞生につながった。これに刺激を受けて、戦前?戦中の困难な时代にもかかわらずその后も法曹界を目指す女子学生が入学し、当时の司法科试験や行政科试験の合格者のほとんどを女子部から出し続けた。映像には开校当初以降の入学者の颜写真台帐と、その后の活跃に伴っての写真映像をもとに、各期の卒业生の各分野での活跃の群像が示され、后に明治大学短期大学の教员になった高洼静江、明治大学初の女性学部教员(法学部)であり女性初の法学博士の立石芳枝、以下、女性代议士、女性税理士、等々、各分野で「女性初の」と冠される人材が続く。
戦后は大々的な教育システムの改変があり、女子部もいくつかのプロセスを経て明治大学短期大学と改められた。4年制の大学に女性が受け入れられるようになった后にも女子の进学先として2年制の短期大学への入学希望は多く、法律科?経済科ともに社会科学の専门教育を受けられるユニークな短期大学としての需要は大きかった。短期大学修了后も関连の4年制学部に进学し、更に职业人として活跃する女性を多く生み出していった。
上映后にはまず吉田恵子元本学部教授が、女子部开设に関わった、当时の明大総长横田秀雄?女子部部长松本重敏?东京帝大教授の穂积重远といった3人の男性が女子教育の扉を开いたことについての意义、それを受け止めた女子部志愿者の女性たちとその出身家庭の実相、すなわち出身家庭は比较的恵まれた新中间层の比率が高かった(约3分の2)こと、最初の司法科试験合格者をはじめ代表的な卒业生について绍介し、さらにそうした人々を生み出す背景として、第2次世界大戦前夜の当时の时代の趋势が稀有な状况を开いたことなどについて述べた。
次に细野はその后の女子部について述べた。すなわち、戦争直后の日本全体の民主化への流れの中で、骋贬蚕の提示した女性の开放や学校教育の民主化等の方针に则り短期大学制度が暂定的に発足するが、明治大学でも女子部の法科と商科は短期大学部となり、他に新闻科?社会科?工学科も设けたりした后、女子のみの法律科と経済科からなる「明治大学短期大学」という形に落ち着き、これが専门部女子部を戦后に引き継いだものとなること、そして1979年、女子部创设50周年记念の机会に设けた「総合讲座妇人问题研究(后に女性问题研究)」でジェンダー问题を包括的に扱い、短期大学は长らく明治大学内でのジェンダー教育を牵引してきたことを説明した。
その後、女子の高等教育の機会が増えるにつれ短期大学の需要は減り続け、2003年度をもって入学試験を停止、2004年には新しく男女共学の情报コミュニケーション学部が誕生した。短期大学と情报コミュニケーション学部は組織として直結しているわけではないが、新学部は時代のキーワードを負ってまた別の意味で時代を先取りする教育?研究を展開する学部と目されている。併せて女子だけの教育機関が明治大学から姿を消すことになり、女子部の歴史的意義が次第に忘れられていってしまうことを危惧して、ジェンダーを核とし、多様性への洞察と理解を深めるよう、さらに次の時代を見越した研究?教育?社会连携を目指す「情报コミュニケーション学部ジェンダーセンター」が開設された。
なお、こうした先駆的な取り組みであったにもかかわらず、女子部については外部のみならず明治大学内でも周知?理解されていたとは言い難く、長らく女子部?短大は「知る人ぞ知る」といった特異な存在として扱われていたことは否めない。特に社会的に女性にも高学歴志向?キャリア志向が高まるにつれ、短期大学は中途半端な教育課程として見られがちになり斜陽化してしまった。さらに本学の女子部?短期大学は情报コミュニケーション学部へと組織が切り替わったためにその継続性を強調することは難しく、NHKのドラマで脚光を浴びなかったら今回のような注目は望めず、埋もれてしまったかもしれない。
今回の企画については、担当したのがともに退职教员であったための事前準备の困难さもあり、実施にあたり準备不足や不手际があったことを自认している。アンケートにも好意的な评価の半面、その旨の批判が复数あり、その责めは重々受け止めたい。企画者として特に残念だったのは、映像にも登场した卒业生の横沟正子弁护士を登坛者として招かなかったことである。横沟弁护士には会场からの补足発言をしていただけたが、それを企画内に取り入れておくべきだった。また、映像は全体で约65分间だが、そのダイジェスト版(16分弱)を、ジェンダーセンターの贬笔からのリンクで见ることができる。そのことを周知する予定であったのを、进行の不手际でせずじまいになってしまった。
アンケートの中には、学生に向けて大学内の女子教育の歴史について知らせる机会が、特に骏河台キャンパスではあまりないのでやってほしいという要望もあった。女子部について语る时、その草创期の华々しさのみではなく、その后どうなったのか、それは日本全体の女子教育の歴史の中でいかなる意味があったのか、そして今后どのような方向が望まれるのかをしっかりと捉えていくことはとても重要であり、そしてジェンダーセンターにはそれを担っていく责务があると笔者は考えている。后の世代にもそのことは託していきたい。
开催主旨を説明する细野氏
女子部开设について语る吉田氏
穂积重远について语る吉田氏